コラム:人生を変えた指揮官との出会い、フアン・クアドラードの覚醒

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  “ゆるキャラ”という言葉が流行ったのはもう何年か前の話か。「ゆるいマスコットキャラクター」を略した言葉で地域おこしのためなどに名産品などをPRするアレのことだ。

 

  イタリア・セリエAで前人未踏の7連覇を成し遂げた常勝軍団ユベントスにもゆるくてかわいらしい愛されキャラの選手がいる。ロシアW杯で日本の対戦国の中心選手として注目されていたことでもお馴染みのコロンビアの韋駄天フアン・クアドラードだ。

 

  ラテンの陽気なノリと無邪気な笑顔で場の雰囲気を和ませ、時に珍プレーなどを見せることもあるが、胸の内には熱いハートを持っておりハードワークを厭わない。持ち前のスピードと運動量で右サイドを駆け回り、時にはオプションとしてサイドバックまでこなす彼は指揮官のマッシミリアーノ・アッレグリ監督からも確かな信頼を寄せられている。

 

  そんなクアドラードだが、かつてはお世辞にも戦術理解度が高いとは言えず直感だけでプレーするタイプのチームのメカニズムに組み込みづらい選手だった。

 

  若手の発掘に定評のあるウディネーゼにその才能を見出され、レッチェへの武者修行の旅を挟み、イタリアの古豪フィオレンティーナへとレンタル移籍。加入1年目となる12-13シーズンには公式戦40試合に出場し5ゴール7アシストを記録。持ち前の身体能力を活かした勢いのあるプレーで攻撃の中心となりチームの4位フィニッシュに貢献を果たした。

 

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  翌年も43試合で15ゴール11アシストとウインガーとしては充分な結果を残すとフィオレンティーナは買い取りオプションの行使に踏み切ることに。ウディネーゼから完全に保有権を買い取り、晴れてクアドラードは正式にフィオレンティーナの選手となった。

 

  また、同年にはコロンビア代表としてブラジルW杯に参戦。主力として出場するとコロンビア史上初のベスト8に貢献し、世界中のフットボールファンの注目を集めた。

 

  迎える14-15シーズン、W杯での活躍もありバルセロナバイエルン・ミュンヘンなど数多くのビッグクラブへの移籍の噂が取り沙汰されたが最終的にフィオレンティーナ残留で決着。同クラブの一員としてシーズンを戦うことが決定した。

 

  しかし、冬の移籍市場でイングランド・プレミアリーグの強豪チェルシーからオファーを受け移籍金3100万ユーロ(約40億円)+フィオレンティーナへのモハメド・サラー(現リヴァプール)の半年間の無償レンタルという形で契約は成立。慣れ親しんだフィレンツェの街に別れを告げる決意を固めた。

 

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  しかし、万物は流転するというのが人生の常というもの。ここまで順風満帆なキャリアを送ってきたクアドラードだったが、彼のサクセスストーリーもここで暗礁に乗り上げることになる。

 

  当時チェルシーを指揮するジョゼ・モウリーニョ監督の志向するサッカーに適応することが出来ず、やがて構想から外れてしまい満足のいく出場機会を得ることのできないままバルセロナから加入したペドロ・ロドリゲスに押し出される形でわずか半シーズンでユベントスへとレンタルに出されることになってしまった。

 

  当時のクアドラードは自身の調子がいいと判断すれば、ボールを繋げばいい状況でも無理に突破を仕掛ける嫌いがあり、恐らくそれが完璧主義のモウリーニョには快く思われなかったのだろう。

 

  「トーレス以降最低の補強だ」

 

  サポーターの間ではかつてリヴァプールで活躍しチェルシーへと移籍したものの結果を残すことの出来なかった元スペイン代表のフェルナンド・トーレスを引き合いに出してこう罵る者までいた。

 

  15-16シーズン、トップ下タイプの選手を求めていたユベントスは当時シャルケに所属していたユリアン・ドラクスラーを獲得寸前のところで逃していた。そしてそのタイミングでのウインガーであるクアドラードの加入であったためにサポーターの間ではその反動も相まってあまり歓迎ムードではなかった。

 

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  ユベントスを率いるアッレグリは戦術家として知られ、この指揮官の下で戦術理解度の低いクアドラードがチームにフィットできるのかという疑問もたしかにあった。

 

  たしかにチェルシー時代、戦術的な話をしているモウリーニョの側で頭上に?マークが浮かび上がったような表情を浮かべていた彼を知っていればサポーターの間に不安が生じるのも理解はできる。

 

  案の定デビューシーズン当初は個人でのプレーに走りがちで、守備にも難があった。しかし、そんな彼にでさえ自身のメカニズムを落としこんでしまうのがアッレグリの名将たる所以だ。あのモウリーニョですらお手上げだったクアドラードには試合を重ねる毎に守備意識が芽生え始め、周囲との連携も徐々に構築されていった。

 

  サイドバックステファン・リヒトシュタイナーの上がるスペースを生み出すために内に絞ったり、パウロ・ディバラが右に流れた際にはトップ下の位置まで進出したりと、かつてのスピードを頼りに強引に仕掛けるだけの凡庸なイメージは徐々に払拭されていった。

 

  同シーズン、最も印象的なプレーを挙げるとすればUEFAチャンピオンズリーグ・決勝トーナメント・ラウンド16のバイエルン・ミュンヘン戦のゴールだろうか。

 

  自陣でボールを奪ったサミ・ケディラのパスを受けたアルバロ・モラタが凄まじいドリブルでファイナルサードまで駆け上がってラストパスを送り、これを受けたクアドラードがシュートブロックに飛び込んできたバイエルンの主将フィリップ・ラームを嘲笑うかのように冷静にキックフェイントでかわし、マヌエル・ノイアーの守るゴールの右隅に突き刺したあのシーンだ。

 

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  「ユベントスと共に再びフットボールの世界で主役になれることをとても幸せに思うよ。ここで僕は満足している。セリエAでは上手くやれていると思うし、本当に快適に感じているよ」

  アッレグリの指導の下、柔軟性を身につけたクアドラードは世界でも屈指のサイドアタッカーへと変貌を遂げた。

 

  1年間のレンタル期間を終えて彼はチェルシーに復帰。同クラブの新監督であるアントニオ・コンテユベントス時代からクアドラードの獲得を望んでいたために再びイングランドの地でリベンジを果たすものと見られていた。

 

  しかし、本人はユベントスへの復帰を懇願。彼の母親がロンドンでの生活に適応できず体調が優れていなかったこともあり、チェルシー側は彼の希望を受け入らざるを得なかった。

 

  そうして夏の移籍市場最終日に買い取りオプション付きの3年間のレンタルでユベントスへの再加入が決定した。

 

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  「自分の家に再び戻り、仲間たちと全てを求めて突き進むことが出来ることを神に感謝している」

 

  自身のSNSでそう語ったクアドラードは再びビアンコネロのユニフォームに身を纏うこととなった。

 

  また、16-17シーズンのCL決勝レアル・マドリー戦を前にユベントスは買い取りオプションを行使。2020年までの3年契約を結んだ。

 

  難しいゴールは決めるのに簡単なシュートを外すのはご愛嬌。サイドを物凄いスピードで駆け上がり逆サイドでプレーするマリオ・マンジュキッチのゴールを演出するホットラインも円熟味を帯びてきた。

 

  今季から加入したフットボール界のアイコン、クリスティアーノ・ロナウドに自身の背番号である7番を快く譲渡したエピソードも記憶に新しい。

 

  一部報道によればアッレグリの残留が決定した際には本人も新契約にサインする準備が出来ているとのことで、指揮官との信頼関係も抜群だ。

 

  今ではユベンティーニの間でも毎年の楽しみの1つとなりつつある、タイトル獲得が決定した瞬間にアッレグリに飛びかかりバニシングスプレーで頭部を真っ白に染め上げる恒例行事を叶うことなら向こう数年間見続けていきたいものである。

 

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  迎える新シーズン、チームは前線にロナウドを加えより強力なスカッドが出来上がりつつある。無論ポジション争いも熾烈を極めることになるだろう。その中で昨季はサイドバックなどにもトライしたクアドラードがどんなプレーを見せてくれるのか楽しみで仕方がない。

コラム: 偉大なるカンピオーネへの道、イタリアの至宝ベルナルデスキの挑戦

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  “絶えず変化を求める気持ちと不満こそが、進歩するために最初に必要となるものである”

 

  かの有名な発明家、トーマス・エジソンはこんな言葉を残した。成長するためには常に変化を求め続け、安定を求めず挑戦をすることが成功の鍵であると。

 

  2017年夏、フィオレンティーナの10番を背負う若者は慣れ親しんだフィレンツェの街に別れを告げ、イタリア北部の都市トリノへとやってきた。

 

  前所属のクラブではエースとして期待され将来を渇望されていたベルナルデスキだったが現状に満足せず、さらなる高みを目指すためイタリア王ユベントスへの移籍を決意。その端正な顔立ちからは想像のつかない卓越したドリブルスキルと鋭いカットインからの強烈なシュートでゴールネットを揺らす姿はかつて自身と同じフィレンツェの街からやってきたクラブのレジェンド、ロベルト・バッジョを彷彿とさせる。

 

  イタリア・トスカーナ州の人口約6万人の街カッラーラで生まれ育ったベルナルデスキは6歳の頃に地元のサッカークラブでキャリアをスタートさせると、在籍当初からクラブにその才能を見出され、2、3歳上のチームメイトに混じってボールを蹴っていた。元イタリア代表のヴィンチェンツォ・モンテッラのように、ゴール後に両手を広げて飛行機を模倣したようなパフォーマンスをすることから当時は“モンテッリーノ”(小さなモンテッラ)という愛称で呼ばれていた。

 

  2003年、ベルナルデスキは10歳の頃にセリエAのクラブ・フィオレンティーナと運命の出会いをし10年間をこのクラブのユースチームで過ごすことになる。すると、各年代のカテゴリでは常に中心選手として存在感を発揮し、エースナンバーである10番を背負い順風満帆なキャリアを送っていた。

 

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  いつしか彼の下には世界屈指のビッグクラブであるマンチェスター・ユナイテッドからもラブコールが届くほどにまで成長。しかし、「興味が持てなかった」とそのオファーを一蹴。自らを育ててくれたクラブに忠誠を誓い残留を決意した。

 

  その後、プリマヴェーラ(18~19歳のカテゴリ)ではキャプテンとしてチームを牽引。その活躍が認められ、2013-14シーズンにはいよいよトップチームに召集された。しかし、出場機会には恵まれず当時セリエBに所属していたクロトーネに共同保有のレンタルという形で武者修行の旅に出ることになる。

 

  「できるだけ早くフィレンツェに戻って、フィオレンティーナの一員としてセリエAで戦いたい」

移籍後、そう語った彼は同シーズン39試合に出場し12ゴール7アシストの活躍を見せると、公言通りフィオレンティーナに呼び戻されクラブは保有権を全て獲得することになった。そして、同年のキャンプで当時の指揮官であったモンテッラ監督へのアピールに成功。トップチームへの昇格を勝ち取った。

 

  若干20歳にしてセリエAUEFAヨーロッパリーグにもデビューするなどトントン拍子に事が運んでいたベルナルデスキだったが、人生とは良い時が続けば必ず悪い時もやってくるもの。同年11月に足首を骨折してしまいシーズンのほとんどを棒に振る大怪我を負ってしまう。

 

  それでも翌年、クラブはベルナルデスキとの契約延長を発表。さらにユース時代に着けていた背番号10を着けることも公表されると、リーグ開幕前に行われたインターナショナル・チャンピオンズカップではバルセロナ相手に2ゴールを記録。2-1でのフィオレンティーナの勝利に貢献し“バッジョの再来”とまで言われるほどに周囲を沸かせてみせた。

 

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  トップチーム3年目となる2016-17シーズンにはリーグ戦32試合に出場し自身初のリーグ戦2桁得点となる11ゴールを記録。バルセロナバイエルン・ミュンヘンなど欧州のメガクラブからも一目置かれる存在へと成長を遂げていった。

 

  そして当時23歳だったベルナルデスキは自身の今後のキャリアを考えクラブの契約延長の打診を断り、ある覚悟を決める。

 

  最愛のクラブを離れ、同国のライバルでもあるユベントスへと移籍する覚悟を。

 

  「12年もの間、僕を成長させ1人前の男にしてくれたフィオレンティーナに感謝したい。僕に関わってくれた全ての人達にもね。みんなに『ありがとう』を伝えたい。彼らのことは決して忘れないよ」

 

  「今、新たな旅へ臨むときが来た。なんて言ったらいいんだろう……これ以上のスタートはなかった。ユニフォームや名誉、僕に与えられたもののために、僕が出来る全てを捧げたい」

 

  ベルナルデスキは自らを育ててくれたクラブとの別れを惜しみながらも、フットボーラーとしてさらなる高みを目指すために新たな扉を開いた。

 

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  簡単な決断ではなかったはずだ。愛するクラブを離れ出場機会も保証されていないチームへと活躍の場を移すというのは。フィオレンティーナで“王様”としてチームの中心となってプレーする選択肢もあったはずだ。

 

  しかし、彼は安定など求めてはいなかった。そこにあったのは純粋に「サッカーが上手くなりたい」という向上心だけだった。

  ユベントスではかつてのバッジョとは違い10番の着用こそ見送られたが、移籍金の4000万ユーロ(約52億円)という金額を見ればその期待の表れは明らかだろう。

 

  ベルナルデスキが代わりに背負う33番はキリストの没年齢を示す数字であり、信心深い彼にとってはとても意味のある番号。しかし、彼は背番号の理由を説明をした後でこう付け加えている。

 

  「“ユベントスの10番”の重みは特別。だが、10番こそが自分の肌に合った番号だと思っている。今は33番を背負うがいずれは僕が10番に相応しい選手だと証明したい」

 

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  そう。彼はこの背番号の重みを理解しながらも、いずれはこの伝統ある栄光の番号を背負う覚悟ができているのだ。今でこそ同胞のパウロ・ディバラがこの番号を身につけてはいるが、次の10番の継承者は彼とみて間違いないかもしれない。そう思わせるだけの覚悟がその言葉から感じ取れた。

 

  加入初年度となる2017-18シーズン、ユベントスの指揮官マッシミリアーノ・アッレグリ監督は新加入選手を時間をかけてチームに馴染ませていく傾向があり、ベルナルデスキはシーズン当初からベンチスタートが続き途中出場での起用が多かった。しかし、普通の同年代の若者であれば不貞腐れてもおかしくない待遇であったにも関わらず、やはり彼は一味違った。

 

  「心配はしていないよ。今は見習い期間のようなものだからね。最初のステップはユーベで僕の存在価値を証明すること。これはディバラでも経験したことさ。僕は犠牲心やハングリー精神、クオリティーを持ち合わせているよ」

 

  憎らしいほどに純粋で落ち着いた言葉だった。

 

  昨シーズンは同ポジションにフアン・クアドラードドウグラス・コスタなどワールドクラスの選手がいるため、スーパーサブ的な立ち位置ではあったが出場した試合ではしっかり結果を残しており、途中出場での起用が多い中で22試合4ゴール6アシストという記録は大したものだ。

 

  迎える新シーズン、チームは新たにフットボール界のスーパースター、クリスティアーノ・ロナウドを前線に加え悲願である欧州制覇に向けて動き出す。ベルナルデスキにとってはよりポジション争いが熾烈になり勝負の年となるかもしれない。しかし、彼の持つ向上心があれば心配はいらないだろう。なにより彼は常にチャレンジャーなのだから。

 

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  今はまだ大きな可能性を秘めたダイヤの原石に過ぎないが、向こう数年間でさらなる飛躍を遂げビアンコネロの10番を背負う姿を筆者は想像せずにはいられない。

  ベルナルデスキの挑戦はまだまだ始まったばかりだ。

コラム : 悪童から真の男へ、厄介者扱いされ続けたスーパーマリオの生涯

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  かつて悪童と呼ばれたその男はもういない。驚異的な運動量と強靭なフィジカルを活かしたプレーでイタリア王ユベントスの攻撃を牽引するクロアチアの大砲は、誰よりもチームのために汗を掻き、クラブのモットーである“Fino alla fine”(“最後まで”の意)の精神を体現している。

 

  クロアチア東部の都市スラヴォンスキ・ブロドに生を受けたマンジュキッチは、幼少時代をドイツ・シュツットガルト近郊の町・ディツィンゲンで過ごした。フットボールとの出会いもこの頃で、10歳までこの町のクラブでプレーした後、母国クロアチアに戻り19歳でマルソニアというクラブでプロデビューを飾ることになる。

 

  翌年クロアチア1部・NKザグレブに移籍し2シーズンを過ごした後、国内の強豪ディナモ・ザグレブへとステップアップ。移籍初年度から29試合に出場し12ゴール11アシストを記録。また、シーズンを通してイエローカードを8枚も受けるなど文字通り大暴れしてみせた。

 

  なお、ユース時代には「寒かったから」という理由で自動車5台を燃やして少年院送りになるというエピソードも持ち合わせており、ピッチ外でも時折問題行動を起こしている。

 

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  ディナモ・ザグレブ2年目となる2008-09シーズンにはリーグ戦28試合で16ゴール11アシストと圧巻のパフォーマンスを披露。その長身を生かした力強いプレーでストライカーとして覚醒しリーグ得点王にも輝き欧州の有力クラブも無視できない存在となっていった。

 

  順風満帆なキャリアを過ごしていたマンジュキッチだったが2009-10シーズン、UEFAチャンピオンズリーグ予選・RBザルツブルク戦で受けたレッドカードや、0-2で敗れたUEFAヨーロッパリーグアンデルレヒト戦での低調なパフォーマンスがクラブの怒りを買い10万ユーロ(約1300万円)の罰金を課されるなど時々クラブと衝突起こすこともあった。

 

  翌年、ブンデスリーガヴォルフスブルクに移籍。シーズン途中から就任した“鬼軍曹”フェリックス・マガト監督の下、軍隊式のトレーニングを経験することになる。恐らく現在所属するユベントスでも豊富な運動量を誇っているのはこの頃の恩恵だろう。

 

  ヴォルフスブルク2年目には32試合で12ゴール10アシストをマーク。好成績を残すのだが、シーズンの初めにマガト監督の戦術を無視したとしてここでも1万ユーロ(約130万円)の罰金を課せられている。

 

  テクニックもありスタミナもあり選手としては素晴らしいのだが、なぜかいつも監督やクラブと衝突をしてしまう嫌いがあるのがたまに傷といったところだ。

 

  そんなマンジュキッチだったが2012-13シーズン、満を持してドイツ王バイエルン・ミュンヘンに加入。ユップ・ハインケス監督の下でレギュラーを掴みとり、3冠(ブンデスリーガDFBポカール、CL)を達成。迎える翌シーズンも稀代の戦術家ジョゼップ・グアルディオラ監督の下で2冠(ブンデスリーガDFBポカール)に貢献。一気にスターダムを駆け上がった。

 

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  しかし、喜びも束の間。平穏は突然にして崩れ去った。

 

  グアルディオラ監督との確執だ。

 

  同監督の思い描くプレービジョンに合わないという理由で徐々に出場機会が失われていくと、遂には優勝のかかったDFBポカール決勝・ボルシア・ドルトムント戦では招集外という扱いまで受けてしまう。

 

  「がっかりしたよ。彼は俺に敬意を持って接してくれなかったんだ。プロフェッショナルとして、誰かからネガティブなエネルギーを感じたら俺はその人を遠ざけるようにしている」

 

  「2年間バイエルンに全てを捧げてきた。俺はあのような待遇に値しなかったと思う。適応するために努力もしたけど、成功するためには両者の努力が必要だ。俺の未来はここには無いと気付いたよ」

 

  そう語ったマンジュキッチはシーズン終了後、ロベルト・レヴァンドフスキの加入に押し出される形でバイエルンを去っていった。

 

  ドイツの地を後にした彼が新天地に選んだのはリーガ2強時代に終止符を打ったスペインの雄アトレティコ・マドリーだった。本人がディエゴ・シメオネ監督の情熱的な指導方法に関心を持っていたこともありこの移籍が実現した。

 

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  しかし、ここでも監督との確執が噂され僅か1年でクラブを去ることに。かつて所属したディナモ・ザグレブ以降2年以内にはクラブを変えていることから“渡り鳥”と呼ばれるまでになってしまっていた。

 

  そんな時に出会ったのが現在所属するユベントス。今ではここが彼の新たな“家”となっている。

 

  「彼は我々の望んでいた素晴らしい選手だ。彼がここにいることが非常に嬉しい」

 

  そう話したのは同クラブを率いるマッシミリアーノ・アッレグリ監督。当時10番を背負っていたカルロス・テベスの退団もあり、この大型ストライカーの加入を喜んだ。

 

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  ビアンコネリの2トップの一角としてプレーするマンジュキッチはハードワークを厭わず、その力強いプレーはクラブのレジェンド、ダビド・トレゼゲを彷彿とさせ一気にサポーターの心を掴んだ。

 

  ユベントス2年目となる昨々季途中にはアッレグリ監督が[4-2-3-1]システムを導入。このシステムでマンジュキッチは主戦場であったセンターフォワードのポジションをゴンサロ・イグアインに譲り、まさかの左サイドのウイングポジションで起用されることになった。

 

  この斬新な采配が大当たり。敵SBとのマッチアップにことごとく勝利し、ロングボールの収めどころとして機能するだけでなく、サイドを縦横無尽に走りまわり守備にも奔走。時にはバックラインの高さまで下がり味方DF陣を助けている。

 

  このストライカーポジションからウイングへのコンバートに対して「ワイドの仕事を楽しんでいるよ。ワイドの位置からでも相手ゴールに迫ることは可能だし、ストライカーだって守備にも注意を払わなければいけない」とコメント。指揮官の要求を快く受け入れた。

 

  「アッレグリは俺にとって欧州でも最高の監督の1人。彼と一緒に仕事ができて幸せだ」

 

  かつて悪童と呼ばれ、所属するチームの数々で指揮官と衝突を繰り返してきた彼の姿はもうここにはない。

 

  ユベントスで3年間を過ごした彼のクラブへの忠誠心には目を見張るものがあり、誰よりもチームを思って走っている。

 

  2016-17シーズンのCLファイナル・レアルマドリー戦でマンジュキッチが鮮やかなオーバーヘッドで同点ゴールを決めたシーンを思い出してみてほしい。

 

  胸に輝くエンブレムを何度も叩き「俺たちはユベントスだ」と言わんばかりの雄叫びをあげたあのシーンを。あのシーンにこそ、マンジュキッチという男の全てが詰まっていたように思う。

 

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  そしていま、定住する地を選ばない渡り鳥が自分の“家”を見つけ4年目のシーズンを迎えようとしている。

 

  チームのためにひた走るこの功労者が、来季も我々と共に冒険を続けくれることを筆者は1人のサポーターとしてただただ願うばかりである。

  無論、彼の他クラブへの移籍は「No good」だ。

 

 

*後日『東欧サッカークロニクル』の長束恭行さんの調べで車を燃やした話はガセ情報だったことがわかりました。

 

期待のホープからビアンコネロのシンボルへ、宝石ディバラの冒険

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  「準備を怠るな。来季はおれたちと一緒に全てを勝ち取ってやろう。凄いことになるぞ」

 

  ベルリンからイタリアへと帰路につくユベントスの選手たちを乗せた飛行機の中でクラブのバンディエラ(旗頭)であるクラウディオ・マルキージオからそう声をかけられたのが当時21歳だったパウロ・ディバラだ。

 

  2014-15シーズン、12年ぶりにチャンピオンズリーグ(以下CL)決勝の舞台に辿り着いたユベントスはスペインの雄バルセロナ相手に善戦したものの、最後には力の差を見せつけられビッグイアーを目の前で逃してしまう。

 

  決勝の2日前にユベントスへの加入が発表されたディバラはこの舞台に招待され、VIPルームでビアンコネリの奮闘する姿を見届けた。

 

  La joya(宝石)と称されるディバラは当時所属していたパレルモでリーグ戦34試合に出場し13ゴール10アシストを記録。当時は「アグエロ2世」とも呼ばれ、狭いスペースでもボールを失わない卓越したテクニックと強烈な左足を武器にセリエAを席巻。その活躍がイタリア王者の目にもとまり、移籍金4000万ユーロ(約51億円)でユベントスの一員となった。

 

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  「パウロは偉大な選手になるだろう。移籍金9000万ユーロから1億ユーロ(約130億円)のメッシにも匹敵する選手にね」

 

  そう太鼓判を押すのはパレルモの名物会長マウリツィオ・ザンパリーニ氏だ。ユベントスマッシミリアーノ・アッレグリ監督が新加入選手を時間をかけてチームに馴染ませていく手法をとっている影響もあり、シーズン序盤彼が起用されないと「私はアッレグリに怒っている。彼が最高級のクラスの選手を台無しにしているからだ」と非難していた。このコメントもディバラへの期待の現れだったのだろう。

  実際、全世界のフットボーラーのデータや年俸など多くの情報を閲覧できる『transfermarkt』というサイトで現在のディバラの市場価値を見てみると、その額は1億1000万ユーロ(約140億円)となっておりザンパリーニ会長の見立ては正しかったことがわかる。

 

  彼がビアンコネリの一員となったこの年、4連覇中で絶対王者だったはずのチームは苦難の時期を迎えていた。

 

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  2015-16シーズン開幕戦、先発メンバーのリストに彼の名前はなくチームは史上で初めて開幕戦で敗北を喫した。その後も不調は続き第10節のサッスオーロ戦までで3勝3分け4敗で12位という体たらく。ディバラ自身も途中交代、途中出場での起用が多く充分な出場時間を得られずにいた。

  アルゼンチン出身であることや同じポジションであったことも含め前年まで10番を背負っていたカルロス・テベスとどうしても比べれてしまうこともあり、彼には前任者の幻影が常についてまわった。今思えば当時21歳だった若者が経験豊富なトッププレーヤーと比較され批判を浴びてしまうなんていうのは随分と酷な話である。

 

  しかし、サッスオーロとの試合に敗れた後、チーム全体でミーティングを開き結束を固めると翌節のトリノデルビーからチームは復調。そこから快進撃を続け破竹の15連勝を記録。ディバラ自身もコンスタントに出場機会を与えられその実力を存分に発揮した。

 

  順位表の中位を彷徨っていたチームは気がついてみればリーグの首位に立っていた。

 

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  翌季もチームは常に首位を走り続け、2位に落ちたのは第4節でインテルに敗れたときの一度のみと国内でもダントツの強さでセリエAを制覇してみせた。

 

  このシーズンの最も大きな変化といえば、従来の[3-5-2]システムから攻撃的な選手5人(ゴンサロ・イグアインパウロ・ディバラ、マリオ・マンジュキッチファン・クアドラードミラレム・ピアニッチ)を同時起用する[4-2-3-1]システムへと移行したことだろう。この新システムの中でトップ下という新たなポジションを与えられたディバラは崩しやフィニッシュの局面で異彩を放ち、チームの中心として攻撃を牽引した。

 

  また、CLでは母国の大先輩リオネル・メッシを擁するバルセロナと対戦し2年前の決勝のリベンジに成功。今度はVIPルームではなく、チームの一員としてピッチに立ったディバラはこの試合で2ゴールを挙げ、勝利の立役者となった。

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  この大会でユベントスはファイナルまで勝ち進み、決勝こそレアルマドリーに敗れたものの、冒頭に記したマルキージオの言葉をたった2年で実現可能なところまで辿り着いたのだから大したものだ。

 

  そして昨季、ディバラはある決断をした。

 

  「ミシェル・プラティニロベルト・バッジョ、そしてアレッサンドロ・デル・ピエロが背負った10番は、パウロ・ディバラのものになる」

 

  そう公表したのはクラブの公式ツイッター。彼はかつてユベントスのレジェンドたちが着けてきた栄光の背番号を継承する決意を固めたのだ。

 

  「僕にとって10番は特別だ。着るのは名誉なことだし、責任を伴う。この番号は僕の子供の頃からの夢だっただけでなく、毎試合勝利に導くためにさらに強い結びつきを感じることができるんだ」

 

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  エースナンバーを背負うことについて自身の想いを語ったディバラは2017-18シーズン開幕戦から驚異的なペースでゴールを量産。第6節までで2度のハットトリックを含む10ゴールを記録。ユベントスの宝石は真の輝きを放ちはじめた。

 

  しかし、コンディションの低下や新たに導入された[4-3-3]システムとの兼ね合いもありシーズン途中にはベンチを温めることもあったが、クラブ副会長のパベル・ネドベド氏は「この年齢では浮き沈みがあるのは普通のことだ。ユベントスはいつでも彼をサポートする」と彼を擁護。そのおかげもあってかシーズン終盤に向けて徐々に復調。3月のトッテナム戦ではチームをベスト8に導く値千金のゴールを決めるなど自身の復活を周囲に知らしめた。

 

  CLの準々決勝のレアルマドリー戦のときのように、ビッグマッチでは試合から消えてしまいがちなこともあるが24歳という年齢を考慮すれば伸び代はまだまだ充分にあるだろう。

 

  1人でも試合の流れを変えてしまうメッシと比較されるにはまだ時期尚早ではあるが、彼が世界ナンバーワンの称号・バロンドールを手にする日はそう遠くないかもしれない。

 

  残念ながら一部の報道では「ディバラはユベントスで偉業を達成した後にビッグクラブへとステップアップすることになる」とも伝えられている。

 

  近年ユベントスではデル・ピエロ以降継続して10番を着用し、クラブの象徴的な存在となる選手が現れていない。一サポーターとしては彼がそのシンボルとして長くクラブに居続けてくれることをただ祈るばかりである。

 

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  ユベントスの“宝石”はまだまだ輝き始めたばかりだ。迎える新シーズン、彼はビアンコネロのユニフォームを身にまとい、再び我々サポーターに感動を与えてくれるはずだ。今までのように。そしてこれからも。いつものようにその端正な顔立ちを“マスク”で覆いながら。

ロシアW杯開幕。開催国ロシアが圧巻のゴールで初戦を勝利で飾る。

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(image@FIFAWorldCup)


  4年に1度のサッカーの祭典、W杯。開幕戦として注目が集まる開催国ロシア対サウジアラビアの一戦が現地時間14日に行われた。試合は5−0とロシアが大量得点を挙げサウジアラビアを下した。

 

  試合は早々に動き出す。前半12分、ロシアがコーナーキックのチャンスを得る。ゴール前に放り込まれたボールは一度はペナルティエリアの外にクリアされるが、これを拾ったロシアのMFアレクサンドル・ゴロビンがクロス。これをMFユーリ・ガジンスキーが頭で合わせ今大会最初のゴールとなるオープニングゴールを記録した。

 

  その後、ロシアはMFアラン・ジャゴエフが負傷しピッチを退くというアクシデントに見舞われたものの、代わって入ったMFデニス・チェリシェフが43分にエリア内でボールを受け、冷静に2人をかわしてゴール左隅に豪快に突き刺し追加点。ロシアが2点のリードを持って前半を折り返した。

 

  迎えた後半71分、ゴロビンの正確なクロスを途中出場のFWアルテム・ジューバがヘディングで叩き込みダメ押しとなる3点目を記録。

 

  また、試合終了間際のアディショナルタイム1分にはチェリシェフが左足アウトサイドで回転をかけた芸術的なゴールで追加点。更にその2分後にはペナルティエリア付近で獲得したフリーキックをゴロビンが直接決めて5–0とし、大量得点で開幕戦の勝利を祝った。

 

  ロシア代表は19日、グループステージ第2戦、エジプトと対戦する。

 


得点者
12分:ユーリ・ガジンスキー(ロシア)
43分:デニス・チェリシェフ(ロシア)
71分:アルテム・ジューバ(ロシア)
90+1分:デニス・チェリシェフ(ロシア)
90+3分:アレクサンドル・ゴロビン(ロシア)

諦めしらずの功労者、リヒトシュタイナーの軌跡

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  決して華があるわけではない。周囲を魅了する華麗なボールタッチや違いを生み出す圧倒的なテクニックを持ち合わせているでもない。ただ、勝利のためにひた走る。泥臭くチームのために汗をかく。ユベントスらしい選手というのはまさにそんなイメージだろう。

 

  そういう意味でステファン・リヒトシュタイナーという男は近年で最もユーベらしい選手だったといえる。

 

  時にはレッドギリギリの危険なタックルをお見舞いしてカードをもらうこともあった。チームの動きが悪いときは怒りを露わにして怒鳴り散らすこともあった。

 

  しかし、彼の中にはいつだってチームを第一に考える熱いスピリットがあった。

 

  2011-12シーズン、名手アンドレア・ピルロや、後に世界でも屈指のミッドフィルダーへと成長するアルトゥーロ・ビダルらと共にユーベへとやってきたリヒトシュタイナー

 

  無尽蔵のスタミナでピッチを駆けまわり、積極的にゴール前にも顔を出すプレースタイルは当時チームを率いていた闘将アントニオ・コンテ監督のサッカーにもピタリとフィットした。

 

  思えば新スタジアムであるユベントス・スタジアム(現アリアンツ・スタジアム)でユーベの選手として公式戦最初のゴールを挙げたのも彼だった。そして、このゴールからセリエA7連覇という偉業は始まったのだ。

 

  しかし、これまでの道のりは決して平坦なものではなかった。

 

  2015-16シーズン、セリエA第5節フロジノーネ戦に先発出場していたリヒトシュタイナーは試合中に呼吸困難に陥りハーフタイムでピッチを退くことになる。検査の結果、不整脈と診断された彼は今後のキャリアを考慮し心臓にメスを入れる決断をした。

 

  1ヶ月後、チャンピオンズリーグ(以下CL)、ボルシアMG戦でピッチに帰ってきたリヒトシュタイナーはなんと復帰戦にしてフル出場。さらにはアウェーの地で0-1と劣勢に立たされていたチームを救う豪快なボレーを叩き込み、チームを敗戦の危機から救う活躍を見せた。

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  「私は間違いなく怖がっていた。もう2度とプレーできないんじゃないかとも思ったよ」

 

  「幸せなことに私には愛情を注ぎ、支えてくれる家族や友人がいたんだ。それにユベンティーニ以外にもありとあらゆるクラブのサポーターたちが励ましの言葉を送ってくれた。これはサッカーの美しい側面だと思う」

 

  試合後、命の危機に瀕していたときの恐怖を語りつつも、自身を支えてくれた家族、友人、そして世界中のサッカーファンに感謝を示した。

 

  恐らくこの試合を見ていたユベンティーニの誰もが心揺さぶられたことだろう。そして気づかされことだろう。諦めないことの大切さを。

 

  そう、彼はいつだって諦めない。

 

  2016-17シーズン、バルセロナから同ポジションのダニエウ・アウヴェスを獲得したユーベは登録枠の都合上CLのメンバーリストからリヒトシュタイナーの名前を外している。

 

  そのときも彼は自身のSNSで「私には全ての試合とトレーニングのことしか頭にない。それは今までもこれからも変わらない。そう、Fino alla fine(“最後まで”の意)だ」とコメントし、決勝トーナメントでは見事CLの登録メンバーに復帰してみせた。


  そして、今シーズンもまた新加入のマッティア・デ・シリオベネディクト・ヘヴェデスに押し出される形で2年連続のCLメンバー落ちとなってしまった。

 

  しかし、それでも諦めずにまた這い上がるのがリヒトシュタイナーだ。

 

  「今まで以上にこのユニフォームに敬意を持って、自分の全てを捧げるつもりだ」

 

  自身のSNSにこう書き綴った彼は正に有言実行。プレーで自身の価値を証明し、決勝トーナメントからは再びCL登録メンバーに名を連ねることになる。

 

  何度厳しい状況に置かれようとも、自分の力で道を切り開き、不死鳥のように蘇る彼はユーベのクラブモットーであるFino alla fineを正に体現する選手だった。

 

  ユベンティーニの方々は覚えているだろうか?

 

  今シーズンのCLラウンド16、トッテナム戦2nd leg。相手のプレッシングの速さになかなか適応できず、敗北も濃厚だったあの状況でメディ・ベナティアに代わってピッチに送り込まれたリヒトシュタイナーの姿を。

 

  ベテランとして諦めムードが漂っていたチームにいつものように檄を飛ばし、気を引き締めさせると、投入から3分後には同点ゴールに直結するクロスを上げ最終的にチームをベスト8に導いたあのプレーは誰にでも真似できるものではない。どんなときでも諦めないリヒトシュタイナーだったからこそ成し得たことだったのだろう。

 

  リヒトシュタイナーはプレー面だけでなく、メンタル面でもチームに大きく貢献してくれていたことは言うまでもない。意思の強さ、言葉を行動に移す力、そして何より諦めない心。ユーベの選手たちだけでなく、我々サポーター側も彼から学ぶことは少なくないのではないだろうか。

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  迎える新シーズン、彼はプレミアリーグの名門アーセナルへと活躍の場を移すことが決まっている。34歳とキャリアの晩年を迎えつつあるが、どんなときでも決して諦めないFino alla fineの心を持つ彼ならきっと新天地でも成功を収めることができるはずだ。

 

  7年間、ユーベに全てを捧げてくれた功労者に感謝を込めて。


  Forza Stephan!! Grazie mille!!

コラム: 偉大なるカピターノ ジジ・ブッフォンの門出

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  いつかはこんなときが来るとわかってはいたが、そんな現実からずっと目を背けていた。

 

  5月17日、アリアンツ・スタジアムで開かれた会見でアニェッリ会長と共に登場したユベントスの偉大なるカピターノ、ジャンルイジ・ブッフォンの表情からは笑顔が見てとれた。しかし、その笑顔からは覚悟を決め“何か”を受け入れたかのような、そんなどこか寂しい雰囲気も同時に感じることができた。

 

  「土曜日が私にとってユベントスでの最後の試合になるだろう」

 

  今年で40歳を迎えたビアンコネリの守護神は17年間というキャリアのほとんどを過ごしたクラブへ、選手として別れを告げることを発表した。

 

  11度のスクデットカルチョーポリにより取り消された2回を含む)獲得に貢献したブッフォンは、良いときも悪いときもユベントスと共に在り続けた。

 

  カルチョーポリによってセリエBへの降格を強いられた当時、多くの主力選手たちがチームを離れていってしまった。そんなチーム状況のなかで、クラブのレジェンドであるアレッサンドロ・デル・ピエロらと共に残留を明言し、多くのユベンティーニを安心させたエピソードは今でもファンの間で語り継がれている。

 

  「私の家はここだ。愛してくれる家族と運命を共にしたい」

 

  このようなパーソナリティを持ち合わせていることこそが、ブッフォンが今でも世界中のフットボールファンから愛されている所以なのだろう。

 

  試合に勝利したときはチームメイトを抱きしめ喜びを分かち合う。敗れたときでも対戦相手へのリスペクトを忘れず、相手の健闘を讃える。イタリア代表として試合に臨むときは国歌を全力で歌い上げる。対戦国の国歌へブーイングが入れば、自身の拍手でそれをかき消してしまう。我々の愛したジャンルイジ・ブッフォンとはそういう男だった。

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  ビッグセーブをしたときも顔色一つ変えず、親指を前に突き出しチームメイトに安心感を与える姿はユベンティーニにとってはお馴染みの光景となっていることだろう。最後尾からチームを支え、数々の偉業を成し遂げてきた彼はまさに“生ける伝説”だ。

 

  3度もCL決勝まで進みながらビッグイアーまであと一歩届かず、W杯優勝経験を持ちながらもキャリア最後のW杯には予選で敗れ出場できず。人目もはばからず泣いたことだって1度や2度ではない。勝利の美酒の味も知っているが、敗北の苦汁もたくさん味わってきた。だからこそ常に謙虚な姿勢を貫き、誰よりも勝利にこだわることができるのだろう。

 

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  主審の判定に激怒して退場となった今季のCL準々決勝2nd legレアル・マドリー戦はまさにそれを象徴していた。3点のビハインドを抱えながら乗り込んだサンティアゴ・ベルナベウでチーム一丸となって戦ったあの試合だ。

 

  最後まで集中を切らすことなく2連覇中の王者相手をギリギリまで苦しめ、敗退寸前まで追い詰めた試合。終了間際のベナティアのファールによってマドリーにPKが与えられたあのとき、真っ先に主審のところへ抗議に行ったのもブッフォンだった。

 

  あのシーンには色々批判の声も上がったが、ブッフォンだって人間だ。ビッグイアーへの最後の挑戦だった試合が微妙な判定によって終わりを迎えようとしていたのだ。怒るのも無理はない。むしろ、その泥臭く勝ちにこだわる人間臭さこそが彼の良いところでもあったのではないだろうか。

 

  たしかに、試合後も主審を批判し続けたのは過ちではあった。しかし、そのたった一つの過ちをとって彼の積み上げてきた偉大なキャリア全てを否定するのは大きな間違いだ。ブッフォンユベントスはもちろんのこと、現代のサッカー界に多くのものをもたらしたことは紛れもない事実なのだから。

 

  17年間をユベントスで過ごしたブッフォンには確かに勝者のDNAが流れていた。彼の体現した"Fino alla fine"(イタリア語で最後までの意)のスピリットは同胞のキエッリーニマルキージオへ。そしてやがてまた次の世代へと途絶えることなく受け継がれていく。

 

  前人未到のリーグ7連覇、セリエA無失点記録の更新、クラブ史上最多出場記録の更新などなど、ここには書ききれない程の偉業を成し遂げたブッフォンはまさにユベントスの歴史そのものだ。

 

  彼をきっかけにユベントスを好きになった人も少なくないだろう。筆者もその内の1人だ。このクラブを好きになる前から彼はユベントスゴールマウスを守り続けていた。

 

  時は流れ、そんな彼もクラブを去るときがやってきた。今は彼の退団を悲しむよりも、笑顔で送り出してあげることを考えよう。

 

  そしてジャンルイジ・ブッフォンという男がフットボールの世界に蒔いた種が、今後どのように芽吹いていくのか。それを楽しみに待ちながら彼の新たな冒険を見守っていこう。

 

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遠く離れた日本より、愛を込めて。

 

Grazie Gigi